フースラーが明かした声が破滅に向かう仕組み
私の声が以前、長期的な不調に陥った経緯、原因は『ホームページ開設にあたって』で既に申し上げた通りです。不調の原因を探ろうと、自己分析したり、歌手仲間や指導者にアドヴァイスを求めて、一時的な解決には至ったことはあったにせよ、機能的、物理的な要素、精神面のコントロールをいくら検証しても問題が根本から解決されることは結局のところ、なかったのです。
私がイタリア留学時にジュリアーノ先生のレッスンを受けて感じた事、今まで人の歌を聴いたり、自ら発声の指導をしてきて、確信したことは、『うたうこと』の著者、フレデリック・フースラーが次のように簡潔に述べています。
「訓練する前には、その生徒は、普通に誰にでもある欠陥は全て備えていたにしても、発声器官各部の共同作業は、生まれつき少なくともかなりの程度に行われていた。つまり彼は『声に恵まれていた』に違いなく、そうでなければ彼は声楽を職業として選ばなかっただろう。その頃の彼は、種々の不完全さはあったにせよ、彼の生来のまだ損なわれていなかった発声器官を無意識に操縦する歌心によって歌っていた。しかし現在では、その発声器官は改善されているべきなのだ。それで声は『作り替え』られ、言い換えれば、これまでの発声器官の機能的構成の秩序は次第に変えられる。発声器官の強力な調整によって結局的には、しばしば賞揚されるところの『意識して発声する事』が新たに作り出される。・・・・・・そして、それから間もなく、本来その生徒を歌手にしていたもの、以前には生き生きとした原動力のように、彼の心に描く能力と発声器官との間で、多かれ少なかれ上手く働いていたもの、が消え去ってしまう。それに代わって全く異質のものが入り込む、すなわち、ある『決められたやり方(メソード)』である。・・・・歌唱にさいして、自発性を欠いては、何一つとして『正しい事』は行われることは無い。有機的なあるものが、方式的な意図に従いながら、それでも尚、自発的に運動するということなど、どうしてできるだろう。そうなれば声は今や、ただ苦労と用心とだけによって、どうにか出すことが出来ているに過ぎない。その歌手の中には、もはや歌おうとするものは何もなくなっている。」
ここで述べられている ”自発性” という要素は言い換えれば、『歌唱中は何一つ意図的な行為は行わない事』の結果であり、発声において最も重要であるにも関わらず、我々、声楽家がメソードを学ぶ過程において失って行き易い、神から授かった『うたうためのテクニック』そのものであり、ジュリアーノ先生が口を酸っぱく言い続けていた ”歌の最高のテクニックとは機能的な事ではなく、テクニックを省みず、自分の声を信じた時に初めて現れる感情や愛そのものに委ねること” によって生まれる、人間のみが持ち得る神秘的な働きなのです。
最初に師事する指導者の重要性
フースラーは著書『うたうこと』の中で上記のように声が破滅に向かっていくのと同様の現象を、医学の専門分野において、非生理的「開路」(新しい伝導経路が開拓されること)と呼び、喉頭鏡などで専門の医師が診察しても何ら欠陥を発見できないとしています。
更に彼は「最も困ったことには、このようなやり方によって消え失せてしまった発声器官の諸機能は、再び目覚めさせることは非常に困難なのである。習い覚えた「欠点」、習い覚えた生理的活動の抑制は、たまたま持ち合わせている欠点ならほとんど常にうまく処理することができるのだが、それに比べると比較にならないほど危険性が大きいのである」とも述べており、このことは声楽を学ぶにあたって、最初に師事する教師の指導が、その後の生徒の歌手生命を決定付ける程、重要な役割を担うことを示していると言えます。
声の監視者の必要性
以下の記述は、フースラーが『うたうこと』の中で述べていることを、本文から抜粋したものです。声を育て、保っていくという事について、いかに多くの人が安易な認識をしているか、独学による練習がいかに危険な行為なのかを説いています。特に、これから声楽家を志す皆様には周りの意見に左右されず、常に認識をして頂きたい点でもあります。
もし歌手たちが自分一人でたくさんの仕事をしているとすれば、彼らはそれを『技術的に』仕事をすると言っているようだが、それが好結果をもたらすことはきわめて稀である。(この場合、テープレコーダーも役に立たない。耳はすぐに欠点に慣れてしまうからである) このことは大多数の歌手が決してそれを承認しようとしなくても、経験的事実なのである。そういう歌手たちは、この真実を認めることが出来ない。それは彼らの多くは次のように考えているからである。すなわち、彼らは最初から健全な発声器官をもって練習してきたのであり、その発声器官は、ただその性能に関してだけ言えば、『テクニック』によって技術的に高められるべきものだというのである。しかしながらこの際、何よりもまず第一に問題となるのは自然にあるものであって、その後でようやく技術に巧みなことが問題となるのである。
練習にさいしては、次のような事情も常に考慮すべきである。すなわち、もし歌の練習ということが、発声器官にとって、今まで不可能であった事柄を目覚めさせるという意味と、同時に間違った事柄を取り除くという意味を持つべきだとしても、やはりまず最初は必ず間違ったことが同時に練習されるのが常だ。それだから、練習は例え、遅々としか進まないとしても、正しい意図が実現されている間だけにしかその価値はないのである。この点を独習の場合は気づかずに踏み越えてしまうのが通例であって、その結果、練習された正しいことが、同時に練習された正しくないことによって、再び相殺されてしまうのである。
それゆえ、例えばこの書物の助けによって自分の声を開放し訓練しようとするならば、少なくとも同じ志を持ち、しかもその役に立ち得る勉強友達を、監視者として立ち会わせることを怠ってはならない。
声の不調やスランプに陥った時、テクニック以外に必ず考えなければならない事とは?